ヤカの散録

忘れてしまうあの日のひだ

2023年3月30日◆牙はぽろぽろと落ちた

少し綺麗な格好をして、だんだんと日が傾いてきた街を行く。今日のミイさんは早上がり。仕事の後少し足を延ばして、前の職場へ制服を返却するついでにそこで一緒に飲もうと話していたのだ。旧居に住んでいる頃は、結局一度もお邪魔できなかった。SNS越しに眺めていたミイさんの古巣、楽しめるとよいのだが。

 

ルリシジミだろうか。小さく薄青い蝶が忙しなく飛んでいる。そういえば、まだ幼稚園にも通っていないくらいの頃だったか、実家の庭にもたくさんのルリシジミが飛んでいたことを思い出す。今よりも髪の毛が細くて茶色くて、くるくるとしていた頃のこと。今となっては何故だか分からないが、私は庭のこの小さく薄青い蝶が私のことを好いていると信じていた。私が庭に出ると、シジミちゃんたちも顔を出す。私が駆け回れば、シジミちゃんたちもそれに続いて私の後を追うように飛ぶ。ずっとそう思っていて、実家の庭で遊ぶのがとても好きだった。何かをきっかけにふと記憶が蘇る時、その記憶が暖かいものであると嬉しい。気持ちが緩んでのんびりと駅へ向かう。

 

途中、梅が紅白揃って綺麗に咲いているお宅の横を通り過ぎる。梅は手鞠のようにぽん、ぽん、と咲いていて、それだけで今日はいい日だ。少し前まで爛漫と咲いていた桜はすっかり葉桜になり、また別のところの桜が今度は満開を迎えている。雨風で散った花弁すらなお華麗で、近くでホケキョケ!ホー、ホ、ケ、キ、ヨ!と鶯がハキハキ鳴いている。花々をはじめ自然溢れるこの街で迎える初めての春だ。それを楽しめるまでに体調が回復したこと、改めて感謝しなければならないな。

 

仕事を終えたミイさんと合流し、店を目指す。今日もお疲れ様でした。初めて入る店内は活気に溢れていて、スタッフも若ければ客層も若い。「おー!ミッさん!」と迎えられるミイさん。スタッフの皆さんは気さくで元気でユーモアがあって、それでいて優しい素敵な方ばかりだった。ここで愛されて働いていたんだねえ。今日一緒に来ることができて良かった、とミイさんに囁く。お食事もお酒もどれもとても美味しく、緊張も手伝ってお酒が止まらない。お酒は酎ハイやサワー系が特に魅力的で、カクテルの延長にあるようなひねりの効いたメニューに目移りしてしまう。燻塩レモンサワーに香辛トマトサワーに桂花ジャスミンハイ、そしてアマレットほうじ茶……すっかり酔いましてご機嫌でお店を出る。隣の席に座っていた方は、春から大学院に進むようだった。少しささくれ。名も知らぬ人、勝手にその背中を応援してしまいます。どうぞお元気で。

 

ごめんよ、帰り道で私はミイさんにそう伝える。実はも何もないけれど、私は彼らのことをずっと敵視していたんだ。長い拘束時間に少ない休日、帰宅後も終わらない作業。当時は常に過剰な疲労困憊の中にいて、そんなミイさんに腰を据えて話をしようと持ち掛けることも難しかったし、仮に持ち掛けることができたとして、きっとお互い頭が働かず話し合いにならなかっただろう。積み重なる課題から目を逸らし、とにかく今日を少しでも楽しくやっていこうとする日々。そこから生じた無理、歪。ミイさんをどんどん人間じゃなくしていく彼ら。ミイさんから笑顔を奪う彼ら。休日にまで侵食してくる彼ら。私とミイさんの生活が機能しなくなっていった原因である彼ら。そう思っていた。しかし違った。“彼ら”を構成する一人一人の問題ではなく、彼らに適用されるルールに難があるのだった。そのルールの中で働く彼らは、ミイさんにとってむしろ味方であったのだろう。ごめんよ。何も知らないで私に見える範囲だけを思って牙を剥いていて、ごめんよ。

 

もっと話せば分かったのだろうか。今だから振り返ってそう思えるのだろうか。それはもう考えたところで分からない。どちらにしても、今日を終えて私の牙はぽろぽろと落ちた。落ちて良かった。牙を生やしているのって、自分も結構、痛いんだよね。幸い帰りの電車はすぐに座ることができて、すぐにうつらうつらしてしまう。牙の落ちた柔らかい心で、二人並んで眠って帰ろう。