ヤカの散録

忘れてしまうあの日のひだ

2023年3月29日◆終幕ではなく幕間なのであって

恩師がこの三月末を以て定年を迎える。研究室の掃除ももう終えたのだと、数か月ぶりの便りにはそう記してあった。きっと疾うの昔に本棚から溢れたであろう書籍、いつ雪崩を起こしても不思議はない山積みの書類、辞書の入った段ボール、コーヒーメーカー。そして、その向こうに見えた背中。そうか、その研究室も空っぽになったのか。なってしまったのか。

 

昨日やっと開くことができた便りには終りの言葉が連なっていて、私は一日動けなくなった。分かってはいたのだ。この三月で定年を迎えられる、そのことは、私が入学し先生に出会ったその時から、分かってはいたのだ。過去形で綴られるこれまでの日々を懐かしむ言葉は、私に時の流れを痛切に感じさせる。幸せでした、その中に私が含まれていること、これ以上ない幸せです、でも、幸せでした、なんて、言わないでください。終幕の香りは衝撃的に立ち込めて、私が選び取らなかった、あるいは選び取れなかった(?)道を、どうしたって強く意識してしまう。もし、がないことくらい、知ってるよ。

 

口に出したら涙が零れてしまって、夕飯を終えお酒を飲んで夜も深まって、えいやと返事を書く。先生からの次の返事がすぐに届くとして、それを届いたそばから開く勇気がなかった。先生からの言葉に、一度だって傷付いたことはないのに。いつだって、暗闇にいる私を暖かく照らす言葉をかけてくださっていたのに。信じられないのではない、見栄っ張りなのだ。嘘はつきたくないけれど、一番いい自分より少し背伸びした姿を、先生にはどうしても見せたくなってしまうのだ。そこから生じた歪みを、歪みを治すのに年単位の月日がかかることを、忘れたわけではないのにね。長くかかってようやく、できなかった、分からなかった、と素直に伝えられるようになったんだよ。己を宥めすかして、深呼吸をして、なるべくなるべく、等身大の言葉を連ねる。

 

いざ書き出してみると、今後とも、これからも変わらず、そんな言葉ばかりの便りができあがっていく。外堀を埋めるような、縋るような言葉を書き連ねてしまう自分に、弱弱しい笑いが出る。先生、今までと変わらない音で私を呼んでください。そんな厚かましいことは絶対に書けなくて、せめてものメッセージとして、私は私を今まで通り名乗る。大きな樹が風に葉を鳴らすように、これまでのありとあらゆることがざあっと頭の中で鳴っている。思い出す、いや、常に頭の中にあることが、いつも以上に鮮明に描かれる。ああ、浸りたくなってしまうな。一つ一つ鮮やかに浮かぶ場面に思いを馳せては足を取られながら、どうにか目の前をすっと見据える。生きていくためには、これからのことを考えなくてはならない。完成、ということにした便りを送り、もう眠ってしまおう。

 

しかし、先生からの便りにはこうも書いてあった。来年度について相談したい。そうだ、これは終幕ではない。一度幕は下りた。けれども、この幕はまた開くのだ。初めて研究室を訪れたその日から思っていた形とは少し違うけれど、その形の違いを飲み込み切れてはいないけれど、先生の人生に私はまだ登場させてもらえる。すべてをすっきりと清算することはしなくていいと思うし、そもできない相談だけれど、今あるこの形を私は大いなる感謝でもって享受すべきだ。これは終幕ではなく幕間なのであって、次に幕が開いたステージにも、私の立つ場所がある。それがどれほど幸福なことか。ないものねだりで良くない。あの日の私が見ている。私、まだステージに立たせてもらえる。それはあなたがずっと望んでいたことじゃない。そうだね。その望みが終わらないってことじゃない。そうだね。それってこれ以上ない幸せだよ。そうだね。頑張りたい。頑張りたい。

 

翌朝、目を覚ますと返事が返ってきていた。四月になったら会いましょう。さらっとした返事だ。それはそうだ。昨晩の七転八倒を思い出し、情けない笑い声が漏れる。ブザーが鳴る、再び幕が開く。次はどの位置に立って、私は何をしましょうか。私の持ってきた題材も、よかったら見ていただけませんか。