ヤカの散録

忘れてしまうあの日のひだ

2023年4月11日◆ハンバーグは美味しかった

朝、いつも通りゴミ出しをしていると、ランドセルを背負った小学生や学生服姿の中学生の登校が再開していることに気付く。ぼんやりとしている私は、今日になってやっとそのことをお、と思ったのだが、もう新学期が始まって二週目のはずだ。明らかにぶかぶかの学ランを着ている少年は新入生だろうか。心も体もすこやかに過ごせる時間がたくさんあるといいね、でも、そうじゃなくても大丈夫だよ。少年の背中に語り掛けるふりをして、自分に言い聞かせる。春。

 

家に戻ってコーヒーを淹れようと用意をしていると、ミイさんが起きだしてきた。おはよう、今朝は気持ちのいい天気だね。いつか、コーヒー淹れたよ、と起こせたら素敵だなあと思っているのだが、その機会はまだ訪れていない。フィクションすぎるシーンだろうか。実際には、目標の温度まで湯が落ち着くのをぼけっと待っているところにミイさんが登場した。素敵なタイミングだけで構成されたシーンばかりがあるわけではない。だって、これは暮らしだから。

 

ミイさんは、私がコーヒーを淹れている横で焼売を蒸かし、雲南紅茶を淹れるため改めて湯を沸かしている。焼売を待ちながら、朝のコーヒーを飲む。タイ産のレッドムーン、ミイさんは特にこの豆が好きなのだが、今朝も美味しく淹れることができた。また一つ、ラジオ体操のカードにスタンプを押した気持ちになる。大同電鍋で蒸かした焼売はしっとりとぅるんとふかふかで、口の中を若干火傷しながらはふはふと食べ、雲南紅茶を飲む。ごちそうさまでした。

 

朝食を終え席を立つ。キッチンやお手洗いのタオルを回収がてら新しいものと取り換え、洗面台でワイシャツの襟にハイターを浸み込ませ、ほいほいほいと洗濯機に洗濯物を放り込んでスタートボタンを押し、部屋に戻ってくる。ドアを開けふと窓の方を見遣ると、出勤前のスーツ姿で本を片手に紅茶を飲むミイさんの姿が目に入る。その奥には、輝くオリーブ。それはあまりに美しい光景で、普段から見ているはずなのだが、私は今この光景の中に暮らしているのか、と今日は何だか急にぐわっと感動が押し寄せてきて思わず立ち尽くしてしまった。笑うミイさんを見送り、改めて部屋を見渡す。うん、好きな生活だ、この生活中にいる自分のことも好きだ、と心が動いたのをもう一度ゆっくり一人噛み締める。

 

洗濯物を干し、昼間をこなし、身支度を整え、麦茶を作って早めに家を出る。風が強い。ごうごうと木々が音を立て、丁寧にカールさせた前髪は一瞬で敢えなくぼさぼさになってしまう。別にまったく気にされないことなど分かり切っているのだが、私の気が済まないから、直前に綺麗に整えなおそうと前を向く。直接お会いするのはいつぶりだろう。今日は先生と夕飯を食べる予定を立てていた。先生に何を贈ろうかずっと悩んでいて、定年などという理由がなかったら一生花束を贈れないのではないか、と昨日の晩に決意を固め、ここと決めた花屋へやってきた。店員のお姉さんにつらつらと相談し、深めの赤をベースに紫などを合わせたシックな花束を作ってもらうことにする。深めの赤は、私が卒業式で着た振袖と同じ色だ。作ってもらう間、少し話し過ぎてしまった、と反省する。と、おや。店の端に、当店でお買い上げの方はご自由にどうぞ、の枝たちを見つける。先生への花束を作ってもらう花屋にあった枝を、私の部屋に飾る。枝を背負って電車に乗り、枝と一緒に先生に会い、その枝を帰ったら必ず飾るのだ。枝が目に入った瞬間、私はそう決めた。真剣な眼差しで、長さの違う二本を選ぶ。花束が完成し、声を掛けられる。とても素敵だ。花束に背中を押されるようにして、先生の元へ向かう。

 

がたんごとん、随分と早く駅へ着いてしまった。電車の中では持って出た本を読もうだとか、それよりも日記の下書きを書き進めようだとか、考えていることはたくさんあったのだが、緊張でそわそわしてしまって結局何もできなかった。じっと花束を見つめ、勝手に大丈夫だよと言わせてみる、それしかできなかった。駅のお手洗いで、前髪を丁寧に梳かした。

 

先生とは夕飯を食べる店の前で落ち合うことにしており、予定の十五分ほど前になってそこへ移動しようと歩く。なんと先生は既に到着されており、先生のお姿を少し離れたところから認めた私は、研究室に入る時と同じ動作をしてから先生に挨拶する。時間調整のために商業施設に入った自分を少し恨む。料理を注文し、花束に万感の思いを託し先生に渡す。電車の中で花束持って帰るのは恥ずかしいけど、と先生は笑いながら言った。荷物になってしまうことは申し訳なく思ったが、先生のその一言と表情は、私の形容しがたい邪な気持ちを何故だか少し満たした。

 

先生と食べるハンバーグは美味しかった。定年を迎えられてからの変化、相変わらずお忙しそうな今年度の動き、新しく私に割り振っていただく仕事のこと。ここには書ききれない量の、たくさんの話をした。先生は一度も言い淀むことなく、私のことを新しい音で呼んだ。もし少しでも呼び方を悩んだりすぐに出てこないような瞬間があれば、できるだけ軽口をたたくように、今まで通りの音で呼んでもらって構わないのに、と伝えるつもりでいた。しかし、ただの一度も言い淀むことはなかった。入学してから長いこと若干間違っている名で呼ばれてきて、やっと覚えてもらった名だった。嬉しかった。覚えてもらった日がいつか、遡ることだってできる。それは、しないけれどね。新しい名は、そんなにするりとまったく違わず先生の口から出てくるのかあ。今日が最後の足掻きだと思っていたから、心の奥がすーっと冷えて寂しくなるのを感じた。今日からは、名が変わっても続くこの関係をありがたく思う、という場所に私が移っていかねばならない。そこが暖かい場所なのは分かっている。しかし、私は。

 

途中、何度も水分が目に上がってきて仕方がなかった。その度に、私は大きな口を開けてハンバーグを頬張った。やはりハンバーグは美味しかった。悔しさ、寂しさ、どうしようもなさ、嬉しさ。様々なところからやってくる感情の塊が形になったその水分は、零してしまわなかった分、確実に胸の奥に溜まっていった。やがてぱつぱつの水風船のようになった私は、それを割らないよう慎重に口を開き、微笑み、ビールを飲んだ。ふいに、大学四年の春の話になる。先生に望まれた私の姿と私が自分に望んだ姿は、まったくと言っていいほどに同じだった。しかしその姿は私に適さず、結局叶わなかった。私は、今の姿でなかったらきっと私を保てていないだろうし、ありがたいことに先生とのご縁も途切れることはなかった。何も失っていないし、何も悲しむことはない。継続していける姿に落ち着いた、それだけのことだ。それだけのことであるし、そのような姿を見つけられたのが多大なる幸運であることも理解している。それでも、入学当初から信じて疑わなかった姿をしている自分への気持ちは簡単に割り切れるものではなく、今もふとした瞬間に存在しない平行世界を見てしまう。我が人生の中の大きな出会いである先生、その先生からの期待にだって応えたかった。ああ、今日ばかりは、家に帰り着くまでは、この感情に蓋をしないでいいや。そう思った。

 

さて、嬉しかったことから忘れてしまう愚かな私に、先生からもらって嬉しかった言葉を残しておこう。先生はさ、あんまり言いすぎてもあれだけどあの、見放しませんから、って言っていたよ。貴方がこういう方にかかわっていきたいという気持ちは十分わかってるので、って。簡単に忘れるんじゃないよ。

 

先生が改札を通ってホームに降りていくのを見送り、私も電車に乗る。強烈で鮮明な感情を反芻*1する必要があった私は、今他の情報を何も頭に入れたくなくて、それでも言葉は溢れてしまって、タイムラインを見ずにツイートだけして後はずっと俯いていた。隣の乗客が、私が電車を降りるまでずっと私に寄りかかってうたた寝をしていた。普段なら大して気にならないのだが、水風船という感情の爆弾になった私は気持ちも感覚も過敏になっていて、正直不快に感じてしまった。そうは言っても、電車でうとうとしてしまう気持ちは十二分に分かるので、できるだけ動かないようにして肩を貸す。リュックサックの布の上から枝を探し当て、電車に乗っている間中、枝にだけ意識を向けていた。

 

最寄り駅に着く。駅からの帰り道が今日はとても長くて、歩いても歩いても家に着かない。理由は分かり切っていて、ぼんやりと忙しなく考え事をしているからだった。いつもは何も考えずに通り過ぎる、地域の広報掲示板の前で立ち止まる。生涯学習の案内やふじまつりのポスターなどをぼうっと眺めた。再び歩き出すと星が目に入ったので、追うように見上げるとどんどん見える星の数が増えていった。

 

家に帰り、枝を飾った。机の上の福だるまを見ると、出掛ける直前までは何ともなかったはずなのに、葉の一枚に亀裂が入っていた。今の私には動揺が大きすぎるが、同時に家に帰ってきたな、と落ち着く自分もいた。この症状は葉割れや身割れというらしい。軽く調べた感じ、水をあげすぎた可能性が高いのか。うーん、あげすぎないように気をつけてはいたのだが。詳細は明日以降調べよう。

 

ミイさんが帰りに、定番の白くまと苺の白くまを買ってきてくれた。私も最寄り駅に着いた時、駅前のスーパーで何かアイスを買おうかと一瞬悩んだのだった。よく分かったね、ありがとう。苺の白くまを選び、私は今の自分を占おうとコーヒーを淹れた。予想通りというか、思い当たる節がありすぎるというか、コーヒーは心ここにあらずなぼんやりした味がした。

*1:日記を書いている今、先生の手掛ける辞書でふと「反芻」を引いたところ、用例が「恩師のことばを反芻する」で思わず笑ってしまった。