ヤカの散録

忘れてしまうあの日のひだ

2023年7月21日◆夏に至る、風鈴を吊るす

寝室の窓から入り込んでくる今朝の風は涼しさを宿していて、私はいつもより軽やかな気持ちで身体を起こす。夜の間は締め切っていた大きな窓も開けて、レースのカーテンが膨らむと部屋の中を風がすーっと吹き抜ける。臥せっている間に、季節はすっかり夏になっていた。ベランダで、わさわさに育ったオリーブに水をやる。ごくごくと水を吸い込む乾いた土を見ていると、自分ものどが渇いていることに気が付く。冷蔵庫を開けて、コップに注いだ冷たい麦茶を一気に飲み干す。おはようございます。

 

今日は長時間の連勤続きだったミイさんの久しぶりの休日で、私も何故だかやっと肩の力が抜ける。お互いに珈琲を淹れて、風に当たりながらのんびりと朝を過ごす。口の中が幸せな余韻で満ちる。しかし、豆のポテンシャルと言えばいいか、味の構成要素がたくさんある豆だということを感じて、それぞれの要素をうまく引き出せていないことがぼんやりと分かる。今朝の珈琲も十分に美味しいのだけれど、君がもっと魅力を発揮できる可能性に溢れた素材だという確信だけはある。むう、と思いつつも、珈琲のことを考える時間はとても前向きで面白い時間だから好きだ。そして何より贅沢だ。ミイさんとゆったり過ごす朝というのは、余裕の象徴のように思える。

 

さて、今日をどう過ごそう。少し前に電車の中吊り広告で見かけた「風鈴市」、二人で行くには今日しかないのだけれど、連勤明けで疲れ切っているだろうということで予定はしていなかった。のだが、立ち上がったミイさんがふと「風鈴市って今日やってるんだっけ」と尋ねてきた。私は今一度開催日程を確認し、ぶんぶんと首を縦に振る。自分の嬉しがる様子に自分で驚く。ミイさんと迎える和室のある夏は初めてだ。風鈴市で二人が気に入る風鈴を探せたらいいな、と仄かに期待していたのだな。

 

出掛ける前に書類作業があるミイさんは机に向かい、私はてきぱきと(した気持ちで)洗い物を済ませる。ミイさんと用事で外に出る機会はあったが、純粋なお出掛けは久しぶりな気がするな、などと考えながら洗面台の前に立つ。アイメイクが気に入る出来になり心持ち余裕が生まれる。今日おろしたほんのりオレンジ色のベージュリップも肌に馴染んで軽やかだ。最後に、近頃気が向いたら仕込んでいるコルセットを装着すれば、少しばかりの自信が立ち現れて自然と背筋も伸びる。メリハリのあるラインに見せてくれるアイテムというのは、私にとって大きな意味を持つ。装備すると、防御力がぐんと上がるアイテムだ。と、ゆるゆる準備をしていたら、出発ぎりぎりになってしまった。いくら早く支度を始めても、いつもどうしても最後はバタバタしてしまう。申し訳ない。子どもの頃見ていた母の姿そっくりで、心の内でくすりとする一方、これは直したほうがいい癖だと常に思っている。思ってはいるのです。

 

最寄り駅に着き、日陰に入って歩く。さらっとした心地よい風が吹く日で、ここ最近では一番過ごしやすい日だった。夏の頂点が今日みたいな日だといいのになあ。風鈴市はそこそこの人出で、覚悟していたよりも快適に回ることができた。そういえば、私はてっきり風鈴市では涼を感じるのだろうと思い込んでいたが、実際に数えきれないほどの風鈴が一斉に鳴っている様は、とても賑やかなお祭りのようでたいへん愉快だった。

 

ぐるりと会場を回る。目に留まった風鈴の音に耳を澄まして、二人真剣な顔つきでその音を聞く。いくつか候補が上がったが、もうほとんど心に決めている風鈴があった。もう一度その風鈴の音に意識を向けてじっと聞く。やはりハッとする美しい音だ。砂張という青銅で作られているその風鈴の音は、例えるならば上品なドアベルのようで、涼やかな高音が良く響き、そして何と言っても、その余韻が長く長く続いた。念願の風鈴を手に入れた我々は、会場を後にし近くの蕎麦屋へ入った。注文を待つ間に読んでいた説明書きには、時が経つほどに鳴り上がる、音が良くなっていくとの言葉。やはり最高の選択をしてしまったな、と二人してにやにやとうるさい顔を突き合わせた。

 

家に帰ってきて、早速、和室の窓際に風鈴を吊るす。風がよく吹く夜で、短冊をくるくるさせながらその美しい音を響かせている。外見をいっぱいに震わせて鳴る音ももちろん好きなのだが、舌が微かに触れて静かに鳴る音もまた聞き入ってしまうしみじみとした良さがある。しばらく、風鈴を見上げ音を追いかける。音が一つ鳴る度に、心の波が凪いでいく気がする。静かで穏やかな気持ちだ。音の余韻が消える瞬間を耳で追ってしまうのは、吹奏楽部時代からの癖だと途中で気が付いた。

 

帰り道で生ハムを買っていたので、夕飯は生ハムメロンだ。こんなに分かりやすく贅沢なこともない。うっかり王族か何かなのだろうかと錯覚、はしない。一週間ほど前になるが、母がお届け物だと言ってメロンを一玉お裾分けしてくれたのだった。ミイさんが半玉分を盛り付けてくれて、二人でワイン片手にぺろりと食べてしまった。冷風扇のタンクに水を入れ、大きな窓を閉めて、給湯器と電気を落とす。夜風に響く風鈴の音に惹かれてか、今日は睡魔がすぐにやってきてくれた。頭の中が真っ黒に塗りつぶされてしまう前に、どうぞおやすみなさい。

 

朝方、のどが渇いて目を覚ました。寝惚けた身体に冷たい麦茶をゆっくりと流し込む。瞼はまだ重い。窓の外に目を遣ると、静けさの中だんだんと白んで光を増す空が美しい。ちょうど目を覚ましていたミイさんと、綺麗だねえと言い合って眠りに戻る。凛とした涼やかな余韻が続いている。