ヤカの散録

忘れてしまうあの日のひだ

2023年3月20日◆花を飾る、キッシュを焼く

ミイさんの耳鼻科が終わる時間に合わせて家を出る。私が駅に到着した時にはミイさんは既に改札前に立っていたが、ちょうどぴったり今着いたところだと言っていた。それならきっと本当にそうなのだろう。このやりとりについて優しい嘘の可能性を考えない、そんな関係を築いてきた年月を思って、私は嬉しい。

 

電車に乗り込み、買い物に出掛ける。明日、私の友人がこちらまで遊びに来てくれるのだ。私は嬉しさにすっかり舞い上がってしまって、ミイさんもとても楽しみにしてくれていて、今日は二人で様々準備を整えようと意気込んでいる。簡単に昼食を済ませた後、ミイさんから「それじゃあお花を見に行こうか」と声を掛けてくれたのがやたらと嬉しく、足取りはさらに軽くなる。こういう時ばかり呆れるほど単純な私である。いつもこれくらい単純に過ごせたらどんなに素敵だろう。

 

帰宅し、まずは花を飾る。花屋でミイさんが選んでくれたのは、白桃のような色をしたカーネーションだった。小ぶりの花がいくつかついていて、キュッと閉じたものからふわっと綺麗に開いているものまで様々な顔がとても愛らしい。数日前まで黄色いチューリップのいた花器に飾り、主役を担ってもらう。部屋の中で見ると一層春の色に感じる花で、周囲がぱっと明るく華やぐのが分かる。

 

かすみ草は、ミイさんの助言で切り分けた茎を一本だけ小瓶に挿した。しだれ梅のようなシルエットの美しさと飾らない可愛らしさが部屋に似合って、とても気に入っている。落ち着いたグリーンのテーブルクロスに、かすみ草の純白がよく映える。残りは丸く纏めて、金色のラインが静かに華やかな小さなグラスに生けた。どこに飾ろうか悩んで、お手洗いの窓際を思い付く。家のあちこちに飾られた澄まし顔の花々は、凛とした空気の中に明るさと暖かさを湛えていて、如何なる日の私も照らす灯りとなる。

 

さて、友人が来たらまずはワインと一緒にほうれん草のキッシュを振る舞おう。ワインはチェコのロゼ。明日仕事のミイさんが事前に用意してくれていたのだ。偶然ではあるが、花冠の少女のエチケットが友人にぴったりだと思う。たっぷりのほうれん草に、新じゃがと玉ねぎとベーコン。新じゃがとベーコンは焼き目が付くくらい炒めて、卵液にはレシピよりもうんとたくさんのチーズを削って、パイ生地を麺棒でぐいんと伸ばしてフライパンに敷き込む。極弱火で一時間ほど焼いている間、バターの甘い匂いが台所から部屋中に満ちる。幸せに匂いがあるとしたら、それはきっとバターの匂いなんじゃないか、などと甘い匂いにふわふわする頭で考える。高校球児を甲子園へ導いているミイさんが「いい匂いだねえ」と笑う。やっぱり私たちも今日も食べたいね、ということで同じ工程をもう一度なぞる。友人と食べるキッシュ、ミイさんと食べるキッシュ。二台のキッシュが並ぶ台所は、紛うことなく幸せの形をしていた。

 

チャイムが鳴る。今月の珈琲豆が届いたようだ。紙の包装から広がる香りの豊かなこと。香り豊か、とはこのことを言うのだなと毎月新鮮に感じている。明日はコーヒーも淹れたいな。それならば、コーヒーに合わせてクッキーも用意したい。なかしましほさんの「ふつうのクッキー」を今日も焼くことにする。今回は少し小さめのクッキーをたくさん焼きたいが、ちょうどいいサイズのクッキー型を持ち合わせていない。結局、野菜抜き型をひっくり返して使うことにした。伸ばして抜いて並べて、伸ばして抜いて並べる。綺麗にまんまるいクッキーがたくさん焼き上がる。途中場所を入れ替えながら焼いたため、焼き色もそこそこ均一に整えられたのではないか。見目良く作りたいのは私の見栄だ。

 

ようやっと腰を下ろして夕飯にする。ミイさんは今日一日、「ヤカさんはしたいことだけすればいいからね」と言って、部屋の掃除から手伝いからすべてをこなしてくれた。その申し出自体に大いなる感謝しているのは勿論のこと、私の友人が訪ねて来てくれることをミイさんも同じように楽しみにしていることが何より嬉しい。花を飾っては一緒に悩み、キッシュやクッキーが焼ければ一緒に様子を見てくれる。果てはバナナとブルーチーズのバニラアイスまで用意してくれた。明日、少しでも友人に楽しい時間を過ごしてもらえたらこれほど嬉しいことはない。

 

いつの間にか、ミイさんの肩を借りてうつらうつらしていたようだ。今日一日かけて用意した私たちのもてなしはすべて自己満足なのだが、そうして迎えたいと思うような友人がいるのは大変ありがたいことだ。友人とミイさんへの感謝を胸に、今夜はぐっすりと眠れそうだ。心の底から明日を待ち侘びる夜は暗闇が重くない。明日、とてもとても楽しみだなあ。