ヤカの散録

忘れてしまうあの日のひだ

2023年3月25日◆区切りの季節、手を動かすこと

挙式の打ち合わせを終えた私たちは、昨晩もつ鍋をつつきながらしこたま焼酎を飲んだ。緊張から解放され弛んだ体に焼酎はみるみる浸み込む。すっかり酔っ払ってしまった私は、結局帰宅してそのまま眠ってしまったのだった。「まだこ」という初めて飲む芋焼酎、美味しかったな。私のために、私たちのために素敵な一日を作りたいです、とはっきり言葉にできて、本当に良かったな。

 

いつもより早く出勤するミイさんを見送り、私は寝惚けたままシャワーを浴びる。二日連続できちんと出掛けるのなんて、いつぶりのことだろうか。体調の良さを素直に喜ぶ反面、アクセルを踏み込みすぎている感もある。ドタバタと支度をし、その合間で両親に電話を掛ける。ミイさんと私、互いの両親の意向を互いに伝え合うというのは伝言ゲームと異文化交流の重ね掛けであって、言葉なんて!と思ってしまう瞬間が最近ぼちぼちある。言葉があって良かったと、あれほど思ったばかりであるというのに。それでも、お互いが少しでも心地よくコミュニケーションを図れるというなら私にできる努力を惜しむつもりはなく、椅子と私の間で潰されて快適さを提供してくれているクッションに感謝の気持ちと情が湧く。随分大人になってしまってから、人を苦手になったり嫌いになってしまったりした時、その感情を洗い流すのはどうやら想像以上に難しいことのようだ。少し前に、別のところで私はそれを目の当たりにした。

 

今日は冷たい雨だ。夏日を記録したなんてニュースを目にした昨日、その地続きとは思えないような今日。天気予報とにらめっこして、エアリズムとヒートテックの反復横跳びをしている。駅まで向かう道にある桜は雨でだいぶ散ってしまっていて、それでもまだまだ寂しさを感じさせることはなく、爛漫と咲いている。桜のこの存在感に圧倒されてしまう春もたくさん過ごしてきたが、今年は少しだけ大丈夫かもしれない。ビニール傘を差したおじいさんが、じっと黙って桜を見上げていた。頭上にも足元にも、しっとり濡れた春の色。

 

電車に揺られ、集合時刻ちょうどに目的地に着く。乗り換えで一本逃した時は酷く焦ったが、どうにか間に合った。久しぶりの顔を見つけ、小さくお辞儀をする。最近すっかり顔を出せていなかった集まりの出張編とでも呼べばいいだろうか。今日は六名集まって、博物館へ活字資料の閲覧に来たのだった。数年単位で会っていなかった方々に会えたことがまず嬉しい。手を洗い、説明を受け、バックヤードに通される。今回の話題については特に事前知識がなく、好奇心だけでえいやとやってきた私である。他のメンバーからの解説を聞き、拙い質問をぽつぽつとし、納得したり分からず仕舞いだったりして、それでもきっと振り返って思い出すのは、些細なこと一つ二つと、目の前に広がる光景の一部だけなのだろう。少人数で資料を読む。大学時代の演習を思い出す。頭に浮かぶ「新年度」の三文字から、今だけ少し目を逸らす。区切りの季節、吹き込む新しい風。やっぱり少しうずくまりたい。

 

博物館を出て、そのまま大きな書店へ向かう。今日集まった中の一人はミイさんの友人でもあって、その友人と店内をゆっくり見ながら、私の小さな夢を話す。叶えてはくださいませんか。勿論、楽しみにしていますとのお返事をもらい、つくづく暖かい人に囲まれていることを身に染みて感じる。きっと実現させるんだ。詩集や歌集の棚で立ち止まり、凝った装丁に一つ一つ感心する。一緒になって素敵ですねと話していたつもりがいつの間にかプレゼンされていて、まんまと詩集を一冊購入する。波のような詩集だ。解散直前に聞いた話を思い出し、私は何をすべきだろうか、どこから手を付ければよいだろうかと頭がいっぱいになる。一つだけ分かるのは、少しずつでも手を動かさないと何も始まらないということだ。要らない見栄を張らず、常に素直な心で手を動かそう。

 

すっかり遅くなってしまった。帰りの電車に乗り込み、ミイさんに帰りの時間を連絡する。ふと車内の案内表示を見遣ると、次に停車するのは先日会った友人の住む駅だった。あなたのお陰で私は、私が私に最高の日を作るんだって言葉にできました。花冷えの折、どうぞ風邪など引きませんよう。ミイさんとは、どうやら途中から同じ電車になりそうだった。私が乗っている車両を伝え、ミイさんと電車内で合流する。それぞれが別の場所にいて家に向かう電車の中で合流するというのは初めてのことで、なかなか愉快だ。

 

最寄り駅に到着して、家までの道をミイさんと歩く。夜のこの街はこんなに綺麗なんだよ、と少し誇らしげに教えてくれる。その声色と横顔が私は嬉しい。私の地元に近いこの街で、私は知らなくてミイさんは知っている景色がいつの間にかできていたんだな。そして、その景色をミイさんはとても気に入っているんだな。雨の匂いが混じる潮風を胸いっぱいに吸い込む。少し落ち着きを取り戻す。私にできるのは、焦らず一つずつ、真摯に手を動かすことのみだ。