ヤカの散録

忘れてしまうあの日のひだ

2023年4月21日◆終わらない下り坂は終わる

朝になったら起きて、部屋着のままゴミを出して、ベランダでオリーブに水をあげて、ミイさんの水筒を準備して、玄関から手を振り見送って、窓際に座りオリーブを眺めて、福だるまの様子を伺って、また布団に戻る。文字に起こせば何の変哲もない私の生活は淡々と続いていて、しかし生活の中で私はわやわやと忙しなく、こうして落ち着いて日記を書くことができるのも当たり前ではないのだなと実感する。ここ一週間ほど、あまり調子が優れなかったのだ。そう、優れなかった、意識して、過去形で書いてみる。

 

生活の中で多少変わったことと言えば、福だるまの定位置が和室の窓際になったことと、日課にOjiのフィルターの水替えが加わったことくらいだろうか。

 

福だるまは二度の身割れを起こしてからより注意深く見守る毎日であって、私の緊張は絶えないものの、今のところ、日当たりと風通しを改善したこの場所でのびのびと過ごしてくれているように見える。䋝田家にやってきて最初に姿を現した新芽はすっかり頭の方からおしろいを叩いたようになって、その間から出てきた新芽もゆっくりしかし着実に生長しており、最近になって更にその間の間から小さな小さな新芽がぴ、と姿を見せた。とにかく嬉しい。ふくふくちゃんが元気そうであると確認し、胸を撫でおろす日々だ。ところで、ふくちゃんとかふくふくとか、その時々で結局呼び名が定まらないのをどうしよう。

 

Ojiのフィルターは、小さなタッパーに水を張ってその中に沈めて冷蔵庫で保管している。水を替え、ホワイトボードにその日の日付けを書く。ホワイトボードに書かれている日付けが今日でなかったら、水を替えて日付けを書き換える。結果的にホワイトボードにも「日付を書かれる」という大切な仕事を任せることになり、よろしくな、と何だか仲間意識が増した。

 

今日はミイさんが休日で、耳鼻科に行って髪を切って、とミイさんが用事を済ませる頃合いに私もよいしょと出掛ける。のっそりとした体を動け動けと励まして、すっかり溜めてしまった洗濯物を洗って干して、出掛ける前にシャワーも浴びることができた。ミイさんと合流し、ようやっと、来月から始まる読書会の課題図書を書店で受け取る。急ぎ読まねばな。式に向けてコンタクトレンズを作ろうと店に向かうも、処方箋が必要なことを失念していた。一敗。それじゃあ眼科に向かおうと駅を移動するも、いつも通っている病院用のファイルに保険証を入れっぱなしなことに気が付き、今日のところは断念する。二敗。自分の不手際で無駄足を踏んだことが情けなく、妙に疲れて、ミイさんと家に帰る。ミイさんごめんね。調子、もう悪くないよ、本当だよ。ミイさんは新じゃがゴロゴロの欧風カレーを作ってくれて、お祝いでいただいた赤ワインと一緒にいただく。カレーもワインもしみじみ美味しいな。ミイさんありがとう。ワインは抜栓したての時よりも味が開いていて、某ゼミばりに、学生時代のバイト先でやったところだ!といった気分になる。楽しいことを考えようね。ごめ……と言いかけて、あるいは言い切ってしまって、大きく息を吸ってありがとう、と言い直す、そんな一日だった。

 

嗚呼、もう、そろそろ素直になろう。この一週間、しんどかった。しんどかったし、正直今もそこそこしんどい。でも、こうして日記を書けるくらいには元気になってきた。だから、きっと、何が何でも、大丈夫。

 

お米が切れたから近所のスーパーまで買いに行こうとして、選挙カーが煩くて、どうにかジーンズを履いて、選挙カーが煩くて、靴下を履いて、選挙カーが煩くて、靴を履いて、選挙カーが煩くて。そのまましばらく玄関に座り込んで、やっぱり無理だと耳を塞いで布団に逃げ帰った。靴も靴下もジーンズも脱ぎ捨てて、鼻はぐずぐず言って目は濡れていた。沿道に「お手を振っての応援ありがとうございます!」とキンキン挨拶しているのを聞くにつけ、明らかに存在する視線を意識してしまい、それがどうしても怖かった。いつもよりうんと早く来てしまった生理のせいだ、これらは生理前のしんどさだったのだ、と後からできるだけ辻褄を合わせようと試みたけれど、それでも自分を納得させることはできなかった。結局、何もできないまま一週間が過ぎた。

 

ある日、お手洗いに立った時だったか、黒猫が道を横切るように死を望む気持ちがふっと頭の中を駆けていって、ピタ、と体が硬直した。一呼吸おいて黒猫の正体を理解した私は、心底落ち込んだ。新しい地で生活を始めて、その思いからは解放されたと信じていた。馬鹿野郎。自分で自分の頬を叩いた。悲しかった。新井素子著『チグリスとユーフラテス』の上下巻を読み切って、登場人物と惑星ナインと存在理由について思いを巡らせ、時間を潰した。本を読む体力は辛うじてある、そのことだけが嬉しかった。一度転がり始めた下り坂には終わりがないように思えて、底なしの真っ暗闇へと身を投げるような気持ちで、とにかく怯えていた。休日、ミイさんが釜飯を食べようと私を散歩に連れ出してくれた。大名気分だと釜飯を頬張るミイさんの笑顔は太陽だった。ミイさんと浜辺で石を拾って、水鳥がペタペタ歩いた足跡を見つけた。帰り道に寄った和菓子屋のみたらし団子が美味しかった。それでも、下り坂は終わらない気がした。一人になるのを見計らって、隙あらば暗闇はやってきた。毎日ミイさんが帰ってくるまで眠って眠って、気を逸らし続けた。そして、今日がやってきた。

 

昨日までの自分よ、聞こえますか。今日は日記が書けました。今はまだ下り坂の中にいてしんどいけれど、日記を書けるくらいにはその坂は緩やかになっているのだし、終わらない下り坂はこれまでいつだって終わってきたこと、頭では分かっている。嬉しかったり楽しかったりして心が動いた方に目を向けて、疲れているなら見栄を張らずに休んで、そんなに怯えなくて大丈夫。私を責め立て私を急かす人は私以外に存在しなくて、それはとてもありがたいことで、ここは一旦落ち着いて、シャボン玉でも吹いてみなさいな。