ヤカの散録

忘れてしまうあの日のひだ

2023年4月14日◆お味噌汁をこぼしても大丈夫

ミイさんが起きだす気配。私も目を開けねば、と思いつつもう一瞬だけ気を緩める。ハッと目を覚ますとミイさんはもうしゃっきり起きた顔をしていて、私も伸びをして急いでミイさんの水筒を準備する。やたらと眠たい朝だ。頭が重たいせいで重心が高い位置にある体をふらつかせて、ミイさんを見送る。今日は帰りが早いんだったね、嬉しい、気をつけていってらっしゃい。大きく手を振ると、頭もぐおんと揺れる。今日の私はすべての動作が重たい。

 

明日は雨予報なので、洗濯機を回す。洗濯は家事の中でも比較的好き、というよりは、苦手意識をあまり持たずに済んでいるのだが、明日の天気予報が雨でなかったら今日はさぼっていただろうな。良くも悪くも緊張の糸が切れたのか、数日前からぼんやり過ごす時間が増えている自覚がある。こういう時は、意地を張らずに流されるままぼんやり過ごすのが一番いい。そう分かっていても、大きく横たわる時間を前に、時間から何かを生み出さなければいけない気持ちになる。仕事、は割り振られるまで待機の状態だが、待っているだけでは給料は発生しないわけで、少しでも私の方で先に進めておけることはないだろうか。家のことだって在宅の私がちゃきちゃき頑張りたいし、当日までもう一ヶ月を切った式の準備も進めなければ。来月から始まる読書会の課題図書が書店に到着したというメールも届いている。数駅先の書店が、今の私にはいやに遠い。

 

頭の中をぐるぐるとかき混ぜながらサンドウィッチを頬張っていると、洗濯機の上がった音が鳴る。はーいただいま、干しましょう干しましょう。湿気を拭い去る風に吹かれ、明るい空のもと洗濯物が気持ちよく乾くのは好きだ。左右の重さが異なってピンチハンガーが斜めになっているのはあまり好きじゃない、ので、仕上げに靴下でバランスを取る。洗濯物を干し終わると、また一気に重心のしっかりしない体になって、昼間をぼうっと過ごす。卑屈な気持ちが湧いてきていけない。

 

ミイさんは暗くなる前に帰ってきて、中華食材の店で冷凍水餃子やら冷凍粽やらを買ってきてくれた。日中一人で過ごす時、食べることをさぼっちゃあいけないね。ミイさんがシャワーを浴びている間、昼間にできなかった洗い物をこなす。すっかり他者からの評価の中で生きているな、と幼い頃からまったく成長のない自分に嫌気が差す。自覚できるようになっただけ、これでも少しはましなのか。

 

約束していた通り、Ojiのウォータードリッパーで初めての抽出をする。ウォーターボールは名の通り丸く、扱いに特に気を遣う。パリン。手を滑らせて、あるいは、力を入れすぎて。聞こえないはずの乾いた音が、脳内でリフレインする。パリン、怖い。パリン、どうしよう。しかし、私たちはお味噌汁をこぼしても大丈夫だし、ウォーターボールを割っても大丈夫なのだ。危ない。ちゃんと思い出した、ちゃんと思い出せてよかった。私は気を取り直し、慎重な手つきで水を入れる。セットはミイさんにお願いするので、ウォーターボールを恭しくミイさんに引き継ぐ。ボゴンボゴン、と空気の入る音が慎重な作業の中にあっては豪快に響いて、少し慌てる。最初だからかコックの調整が難しくて、水滴が落ちる速度を見守りながら何度もいじった。これで一段落、だろうか。ニードルコックから水滴が落ちる、サーバーにコーヒーの雫が落ちる、時折ウォーターボールに空気が入る。ポツ、ポタ、ボゴ。いつまででも見ていられる光景。ミイさんと並んで黙ったまま、しばらくじっと見入る。上手くいけば、明日の朝はこのコーヒーが飲めるはずだ。ポツ、ポツ、と静かに落ちる水滴に後を託す。

 

緊張の時間を過ごした後、ミイさんがいつも通りコーヒーを淹れてくれて、さらに温かいお茶まで用意してくれた。ミイさんが淹れるコーヒー、日毎に美味しくなっている。今日は特にクリーンという表現が頭に浮かぶ味わいだ。ほっとするねえ、とお茶を飲んで一息つき、少しゲームをして本を読む。寝るまでまだたっぷりと時間があり、私は新井素子著『チグリスとユーフラテス』の上巻を十何年振りかに読み返すことにした。ミイさんが以前骨董屋の隅で見つけたというラジオのザラザラとした質感の音、本を読むのにしっくりくる。加えて、ミイさんは画面を消音にして『トムとジェリー』の映像を流し始めたので、いくら何でも洒落ているな、と私は内心おののいた。ソファーの上で互いの背中を合わせて、それぞれに読み耽る。

 

寝る前にもう一度、Ojiの様子を確認する。先程よりも着実に、ウォーターボールの中の水は減っているし、サーバーに溜まっているコーヒーは増えていた。おお。ワクワクとした気持ちが湧き上がる。朝が楽しみになり、明日が楽しみになると、昼間の卑屈虫は鳴りを潜めたようだった。