ヤカの散録

忘れてしまうあの日のひだ

2023年3月15日◆どう足掻いてもいい時間

目が覚める。寝る前に仕掛けておいた食パンがあと少しで焼き上がりそうだ。寝室のドアを開け放つと、小麦の匂いが流れ込んでくる。ミイさんと「幸せな匂いが充満してるねえ」と話しながら待っていると、ついにピーと呼ばれる。フランスパン風に焼いた今回の食パンは耳がカリカリとしていて、網の上に出してもしぼまずにピシッと背筋を伸ばしているような頼もしさがある。

 

パンの焼き上がりに喜び、わーいと布団に飛び込んだのがいけなかった。二人してそこそこの二度寝をしてしまいハッと体を起こす。急ぐ旅でもあるまいし、まあいいか。ミイさんが買い物に出てくれている間、私は部屋中掃除機を掛けて回り、残っている洗い物に手を着ける。シェフ・ミイはタルタル卵サンド、べったら漬けがアクセントのサバサンド、ワカモレをたっぷり塗ってチーズを乗せて焼いたパンで作るベーコンエッグサンド、そしてチョリパンと数々のサンドウィッチを山のように作り出す。手際の良さにぽかんと見ていることしかできない。こういう時は助太刀に徹するに限る。

 

ワインを新聞紙で包み、保冷剤と一緒にしてクーラーボックスに入れる。昨晩焼いた「ふつうのクッキー」をキッチンペーパーを敷いたタッパーに詰める。身支度を終え、少し余裕があるので水筒にコーヒーを持っていくことにする。Coffee Reverbさんの豆を挽き、初めての四杯取りに挑戦する。ミイさんの「あっさりめを意識したほうがいいかも」の助言が効き、ここ最近の中でも特に美味しく淹れることができた。ほっとすると同時に、とてもとても嬉しい。水筒に詰め、トートバッグの中に忍ばせる。コーヒーボーイさんの焼く豆でコーヒーを淹れて外に持ち出して飲みたいなあ、と密かに思い続けた夢が今日これから叶うのだ。

 

近場の浜に到着し、ピクニックシートを広げる。視界いっぱいに広がる、海、海、空、雲、海、船、海。今日の海は特別キラキラしていて、深い青、緑がかった青、紫に近い青、様々な青が帯状に混ざって吸い込まれそうになる。準備は万端だ。グラスを取り出しワインを開ける。ヴィニョブル・デュ・レブールのオレンジはロゼのような華やかな色だ。チン!とグラスを鳴らして一口。「うまあ」と声が漏れる。ぎゅっとした旨味というか、ワイン自体にあるエネルギーの感覚というか、エキス感と呼ぶのだろうか、求めていたぴったりの美味しさに思わず居酒屋一杯目のビールのような反応をしてしまう。隣でミイさんも同じような顔をしていて、こういうのが飲みたかったよねえ、と開始早々にして心が満たされる。近頃ナチュラルワイン不足をひしと感じて物足りずにいた私の体は、みるみるうちにワインを吸い込む。タルタル卵サンドにかぶりつき、幸福は抱えきれないほどに膨らむ。と、そこにサッと通り過ぎる影。手にあった卵サンドがない。とんびだ。落としたサンドのもう半分もきっちり回収する徹底ぶりに少し笑う。見上げると、随分低くを旋回している。急いで場所を移そう。

 

まだタルタル卵の真ん中まで辿り着けていなかったのに、と肩を落とし浜を去る。振り返ると、一羽のとんびと烏の集団が散らばった卵をつついていた。とんびは俺様が仕留めたんだぞとでも言いたげに羽を広げて烏を威嚇するが、烏はちょいと避けたと思ったらとんびの背中側に回り何食わぬ顔でまだつついている。「やられたねえ」と地元の方に声を掛けられた。

 

自然公園の中を歩く。程なくして菜の花の綺麗な広場に出た。低い木の下にベンチがある。あそこなら大丈夫かな、とベンチにシートを被せてピクニックの再開だ。今度はルナーリアのオレンジを開ける。大学時代のバイト先にいつも置いていた箱ワイン。少し蜜っぽい旨味が堪らない。サバサンドは西京味噌が味をまとめていて、優しく深みのある味がしみじみと美味しい。食べ疲れることなくぱくぱくとかぶりついてしまうし、勿論ワインも進む。目の前はいちめんのなのはな。純銀もざいくだ。と、今度はミイさんが狙われた。消えるチョリパン、いつの間にか回収されている落ちたチョリソー。ここで駄目ならもうサンドウィッチは厳しいね、と残りは帰ってからのお楽しみにする。「盗られましたか」と散歩中のおじいさんが通り過ぎていく。

 

サンドウィッチとワインを仕舞い、代わりにコーヒーとクッキーを取り出す。ここからのピクニックはヤカがお送りします。コーヒーを一口飲み、ほぅ、と息をつく。これもまたいい時間だ。そうだ、今日はどう足掻いてもいい時間にしかならないのだ。木陰から菜の花を眺めつつ飲むコーヒーはとびきり美味しい。ミイさんが嬉しそうに飲んでくれる姿もまた嬉しい。クッキーはざくざくぽりぽりとして、程よい塩加減でついつまみたくなる菓子を焼くことができた。また焼こう、と心はくるくる躍る。ミイさんが音楽を流し始める。これを聴けば小さな浜も湘南の海に早変わり!と流す予定だった『江ノ島エスカー』を流し、浜ではこんな余裕なかったねえと笑う。最近聴いている音楽をお互い流し、一緒に音楽を聴きに行きたいなという話をする。今年叶えたいことの一つだ。楽しいことをしようね。ゆったり流れる時間の中、心のほどけた私たちはいつもより一枚奥の扉を開けて静かに話をする。お互いに心配してしまうよね、私は最近ずっと大丈夫なんだよ。離れた場所でシートを敷くでもなく原っぱに寝転がっているおじさんに、私は勝手に幸せの形を見る。

 

防災無線のチャイムで今の時刻を知る。もう子らが家に帰る時間か。私たちもそろそろ家に帰ろう。歩き出すと、いつの間にか思った以上に日が傾いていることに気が付く。額に当たった夕日は睫毛を滑り落ちて、視界が暖かくちらちらする。家に帰ったら、またピクニックをしよう。今度こそとんびに狙われないでサンドウィッチを広げられるよ。