ヤカの散録

忘れてしまうあの日のひだ

珈琲

家でコーヒーを淹れるようになったのはいつだったろうか、と少し懐かしむ目をしてみる。みたのだが、実はまだ一年も経っていないらしい。それだけ、今や我が家の生活に馴染んでいるコーヒーである。

 

友人に焙煎士がおり、新米のようにつやつや輝く豆に一目惚れして以来、毎月定期便をお願いしている。新生活も始まって、改めてコーヒーのある生活が日常に戻ってきた。初めて手にしたドリッパーはカリタの陶器製のもの。最近、ミイさんの職場で使っているハリオのV60ドリッパーも仲間入りした。それから、月兎印のからし色のスリムポットに、黒のみるっこ。これらが䋝田家のコーヒー道具たちだ。

 

ミイさんの興味から始まったコーヒー生活だったが、いつの間にか私の方がすっかりハンドドリップの世界にのめり込んでしまっていた。旧居では私がずっとコーヒーを淹れていた記憶がある。しかし、初心者のくせして一丁前に自身に高いハードルを課してしまう私である。満足いくが抽出できなかった日は、顔が思い浮かぶ友人が焙煎している豆であることも相まって、不甲斐なさから比喩でなく泣いていた。とにかく楽しんでやってみることを第一にするミイさんに対し、「そんなに変数だらけじゃあ味の再現性がないではないか!」と腹を立てたこともある。私は何をやっているんだ。

 

コーヒーのある生活が私に与える影響は、思っていた以上だった。先ず以て、美味しいコーヒーそのものが生活を豊かに彩ってくれる。嗜好品と言えばお酒ばかりだった私たちに、コーヒーという新しい選択肢が増えた。それだけで十分すぎるのだが、さらには、“何かを続けること”がコーヒーによって叶った。毎朝コーヒーを淹れるという何気ない習慣は、調子を崩して以来久しくできていなかった、集中と継続を私に与えてくれた。小さなことだが、一日の始まりにコーヒーを淹れたという実績は、確かにその日一日の私を支えていた。小学生の夏休み、毎朝地域のラジオ体操に参加して、スタンプがだんだんと連なっていくような。

 

新居での生活が始まり、ミイさんは時間に余裕ができ、私は体調がだいぶ回復してきた。生活に心的ゆとりができると、これまで以上にコーヒーが欠かせない存在となった。一緒にいる人と同じ温度感で興味を持てることがあるのはいい。私もミイさんもお互いの趣味に興味を示す性格ではあるが、基本的にその場合どちらかが受け身である(もちろん、ミイさんの熱意を伴って知らない世界を覗くのも大変ワクワクする)。それに比べて、コーヒーは共通の関心事であり趣味だ。横に並んでああでもないこうでもないと試行錯誤するのも、勉強を兼ねて一緒に喫茶店を巡るのも、ミイさんがやたら美味しいコーヒーを淹れて瞳の中の炎を燃やすのも、私の淹れたコーヒーを飲んでミイさんがぐぬと悔しがる姿を見るのも、すべてが楽しい。

 

もうすぐ今月分の豆が届く頃だ。今度はコーヒーに合わせて何かお菓子を焼くのもいい。